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上期を終えて
1月2日より始まった、小笠原流の諸行事。
おおよそ上期は終わりました。
滞りなく執行できたかなと思います。
事故無く。
事故というのは、落馬は事故ではないというのが我々の考え方です。
第三者に危害が加わることが事故。
落馬が事故って、いかにも現代的な発想。
さて、上期はなかなか自身として大変だった。
まずは、1月には、インフルエンザになる。
妻も
4月の浅草流鏑馬では膝がパックリ切れるという事態。
縫うべきだとは思ったが、時間も無いし、いつか治るということでそのままにしたが、まぁ完全に跡が残った。
そして極め付けが5月頭に骨を損傷。
と、歳なのか、稽古が足りないのか、多忙過ぎるのか、はたまた、単なるフヌケなのか。
わからないが、ただ言えるのは、雑音が余りに多い中ではあるが、未来のために必要なことを志を共にする者と進み続けるしか無いということだ。
さて、香取神宮では蟇目を、日光東照宮では流鏑馬、氷川神社では蟇目、壺井八幡宮では三々九、鹿島神宮では蟇目と
怪我をした後も続いたわけです。
何かを理由に出来なかったことの言い訳をする人にはなりたくない
そんな考えがある。
なので、怪我しているのでしっかりできません。となるくらいであれば、そもそもすべきではない。
やると決めたのであれば、ベストの時よりもいい結果を出す
とはいえ、通常通りには当然できないので、随所でお世話になった。
道中の運転であったり、荷物運びであったり。
一本引くために全てを温存して、一本にすべてをかける。
そんなことで、香取神宮はよく出来たと思う。
日光は例年は葵祭りのお手伝いをしてから伺っていたが、葵祭りを失礼して温存。
ただ唯一、壺井八幡宮だけが出来ませんでした。
今年の壺井八幡宮の三々九手挟式は後にも先にもこの一回しかないわけで、来年もあるというものではない。
関東から運転までしてもらい、現地でも荷物などを運んでもらってまでのぞんだにも関わらず、精神が肉体を凌駕することなく、先を考えてしまった。
全身全霊を持って行事をするからこそ、それが神事としての意味をなし、その姿を観ることで多くの方が感銘を受けるのだと思っている。
つまり、行事で奉仕する、特に射手をするものは、それ相応の覚悟を持ってのぞむべきであると考える。
故に、弓を引き終わった後などにへらへらするとかありえない。
また、初めて射手をする際に我々は『初陣』という言葉を使うが、最近の方々は別の言葉を使う傾向がある。
個人的には、そんな覚悟も無い者が射手などするなと思ってしまう。
今年の壺井八幡宮でのことは、我が人生の中で忘れることの無い出来事になったし、あまりにも申し訳がないので、壺井八幡宮での射手としての奉仕は今後はご遠慮させていただこうと思う。
秋の行事に向けて、志の高い門人の方々を鍛え上げてみようと思うが、おそらく、本気でやったら誰もついては来ないだろう。
色々と思うことが多いが、ある程度の厳しい対応も必要か
おおよそ上期は終わりました。
滞りなく執行できたかなと思います。
事故無く。
事故というのは、落馬は事故ではないというのが我々の考え方です。
第三者に危害が加わることが事故。
落馬が事故って、いかにも現代的な発想。
さて、上期はなかなか自身として大変だった。
まずは、1月には、インフルエンザになる。
妻も
4月の浅草流鏑馬では膝がパックリ切れるという事態。
縫うべきだとは思ったが、時間も無いし、いつか治るということでそのままにしたが、まぁ完全に跡が残った。
そして極め付けが5月頭に骨を損傷。
と、歳なのか、稽古が足りないのか、多忙過ぎるのか、はたまた、単なるフヌケなのか。
わからないが、ただ言えるのは、雑音が余りに多い中ではあるが、未来のために必要なことを志を共にする者と進み続けるしか無いということだ。
さて、香取神宮では蟇目を、日光東照宮では流鏑馬、氷川神社では蟇目、壺井八幡宮では三々九、鹿島神宮では蟇目と
怪我をした後も続いたわけです。
何かを理由に出来なかったことの言い訳をする人にはなりたくない
そんな考えがある。
なので、怪我しているのでしっかりできません。となるくらいであれば、そもそもすべきではない。
やると決めたのであれば、ベストの時よりもいい結果を出す
とはいえ、通常通りには当然できないので、随所でお世話になった。
道中の運転であったり、荷物運びであったり。
一本引くために全てを温存して、一本にすべてをかける。
そんなことで、香取神宮はよく出来たと思う。
日光は例年は葵祭りのお手伝いをしてから伺っていたが、葵祭りを失礼して温存。
ただ唯一、壺井八幡宮だけが出来ませんでした。
今年の壺井八幡宮の三々九手挟式は後にも先にもこの一回しかないわけで、来年もあるというものではない。
関東から運転までしてもらい、現地でも荷物などを運んでもらってまでのぞんだにも関わらず、精神が肉体を凌駕することなく、先を考えてしまった。
全身全霊を持って行事をするからこそ、それが神事としての意味をなし、その姿を観ることで多くの方が感銘を受けるのだと思っている。
つまり、行事で奉仕する、特に射手をするものは、それ相応の覚悟を持ってのぞむべきであると考える。
故に、弓を引き終わった後などにへらへらするとかありえない。
また、初めて射手をする際に我々は『初陣』という言葉を使うが、最近の方々は別の言葉を使う傾向がある。
個人的には、そんな覚悟も無い者が射手などするなと思ってしまう。
今年の壺井八幡宮でのことは、我が人生の中で忘れることの無い出来事になったし、あまりにも申し訳がないので、壺井八幡宮での射手としての奉仕は今後はご遠慮させていただこうと思う。
秋の行事に向けて、志の高い門人の方々を鍛え上げてみようと思うが、おそらく、本気でやったら誰もついては来ないだろう。
色々と思うことが多いが、ある程度の厳しい対応も必要か