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6月
6月に入りました。
今月が終わると半年が過ぎることになります
早いような遅いような
ようやく、副作用がおさまり健全になってきました。。。。
次は、秋に・・・・
この時期は、カビが生えるので道具の管理が大変です。。。。
倉庫にはエアコンを完備したので、以前ほどのことは無くなりました。
今月が終わると半年が過ぎることになります
早いような遅いような
ようやく、副作用がおさまり健全になってきました。。。。
次は、秋に・・・・
この時期は、カビが生えるので道具の管理が大変です。。。。
倉庫にはエアコンを完備したので、以前ほどのことは無くなりました。
中り
流鏑馬や歩射の行事で
中りとは
的奉行が判断します。
なので、中っていても中りにならない時があります。
例えば、箆中り(のあたり)といって、矢の竹の部分が的に中るのは外れです
もちろん、矢止めに跳ね返って中るのも外れです
逆に、解説からは全てが見えるわけでは無いので実際に中っていても解説では中りと言われないこともあったりします。
こういう曖昧さも日本らしいです
中りとは
的奉行が判断します。
なので、中っていても中りにならない時があります。
例えば、箆中り(のあたり)といって、矢の竹の部分が的に中るのは外れです
もちろん、矢止めに跳ね返って中るのも外れです
逆に、解説からは全てが見えるわけでは無いので実際に中っていても解説では中りと言われないこともあったりします。
こういう曖昧さも日本らしいです
春の行事
浅草流鏑馬が終わり、春の騎射行事がひと段落しました。
事故なく、全てが終わりました。
天気がよいので、洗濯です

馬に使う道具の調整を夏の間にして秋の行事で万全な状態にしておかないくてはなりません。
全体的にはコロナ禍を経て、門人の方々の上達がみえたと思います。
技術的ということだけではなく、行事執行に必要なことの全般が浸透しているように思います。
私がいなくても、そろそろ大丈夫な気がします。
最近は、体験会や講演会のご依頼をいただくことが多くなってきました。
自分自身もいつまで乗れるだろうか。。。
最期に、身体的な問題が無い状態で乗りたいなと思うけれども、それは不可能なことなのは分かっている
事故なく、全てが終わりました。
天気がよいので、洗濯です

馬に使う道具の調整を夏の間にして秋の行事で万全な状態にしておかないくてはなりません。
全体的にはコロナ禍を経て、門人の方々の上達がみえたと思います。
技術的ということだけではなく、行事執行に必要なことの全般が浸透しているように思います。
私がいなくても、そろそろ大丈夫な気がします。
最近は、体験会や講演会のご依頼をいただくことが多くなってきました。
自分自身もいつまで乗れるだろうか。。。
最期に、身体的な問題が無い状態で乗りたいなと思うけれども、それは不可能なことなのは分かっている
地域性
子どもの運動会に行った
小学校から東京
幼稚園は湘南
保護者や子どもの雰囲気が全く違う
地域性の一言だと思われる
さて、運動会は現代的な部分があった
常に、今何の競技をしているのかがスマホに通知が来る
つまり、ずっと学校に居なくても見たいのだけ見られるシステム
あとは、撮影スポットは交代制
運動会の内容自体は昔と変わらない感じ
小学校から東京
幼稚園は湘南
保護者や子どもの雰囲気が全く違う
地域性の一言だと思われる
さて、運動会は現代的な部分があった
常に、今何の競技をしているのかがスマホに通知が来る
つまり、ずっと学校に居なくても見たいのだけ見られるシステム
あとは、撮影スポットは交代制
運動会の内容自体は昔と変わらない感じ
見慣れたこと
見慣れた光景に別の物があると
違和感を感じるものです。
つまり、見慣れた光景であるからこそ違和感が生まれます。
いつもいつも違う光景であれば、そこに違和感は出てきません。
稽古とは違和感を持つことだと思います。
当流では
他人を大切にする前に自分を大切にする
と言います。
これは、自己中心的であるということではなく、自分を律するからこそ他人を大切にできるのだということです。
自分を律すれば、自ずと同じような光景がでてきます。
だからこそ、違和感として映り、また、必要とされていることができるのだと思います。
気が付かないのは、技術を求める稽古しかしないからではないだろうか。
本当の意味での稽古をしてほしい
違和感を感じるものです。
つまり、見慣れた光景であるからこそ違和感が生まれます。
いつもいつも違う光景であれば、そこに違和感は出てきません。
稽古とは違和感を持つことだと思います。
当流では
他人を大切にする前に自分を大切にする
と言います。
これは、自己中心的であるということではなく、自分を律するからこそ他人を大切にできるのだということです。
自分を律すれば、自ずと同じような光景がでてきます。
だからこそ、違和感として映り、また、必要とされていることができるのだと思います。
気が付かないのは、技術を求める稽古しかしないからではないだろうか。
本当の意味での稽古をしてほしい